2011-03-21

私にはOBS(アウトワード・バウンド・スクール)の同期の仲間がいる。17年前の仲間だが、今でも親交がある。その仲間から、数日前に電話連絡が入ってきた。その電話の中で、私の同期の仲間のさらに仲間が(ややこしいか)、現在東日本大震災の最も被害の大きかった地域でボランティア活動をしていて、その現地の様子をメールしてきたと言うことを教えてくれた。

何日も前の状況にはなるが、私のHPを見てくれているひとに現地の様子を知ってもらいたく、仲間の許可を得た上で、その内容を公開させてもらうことにする。

志津川の大きな町始め、いくつもの村が壊滅状態です。支援物資は大きな避難所に集まって、ガソリンがないため全く行き渡っていません。道路はかなり自衛隊によって、入れるようになっています。現在ここ南三陸町に入るには、398しかありません。緊急車輌通行証を取るか、かなりの量のガソリンを確保していない限り、現地に入るのは難しい状態です。夕べは一度、橋が落ちて通れない45号に入り込んでしまい、新潟から買い出しをしてまた戻ったのは、20時30分を過ぎた頃でした。買い出しを頼まれた物は、紙パンツ(オムツ・着たきりで下着の替えもないため)、歯ブラシ、シャンプーやドライシャンプー、石鹸や洗剤、生理用品、トイレットペーパー、ウェットティッシュ、風邪薬、塩、砂糖、コーヒーやお茶、醤油、味噌、油、肉、野菜、甘い物、マッチ、ライター、電池、マスク、軍手、懐中電灯などでした。

山形も、物資・ガソリンとも全くなく、両方とも手に入るのは、現在新潟のみです。最初の予想通りに、新潟と現地をピストン輸送となっています。

夕べ、今朝と、少ない食料の中で暖かい食事をご馳走になり、たくさんの人達が皆さんの力になりたいと思っていますとお伝えしてきました。皆さん涙で見送ってくださいました。
全てを失い、これから先の状況が全く見えない中、皆さんからの暖かい手が、本当に被災した方たちの力になります。
これからが本当の闘いになると思います。皆さんからの支援金は、これからも直接この地域、他の地域に直接手渡します。ありがとうございます。
これからもう一カ所回るつもりです。現在市内のガソリンを待つ車の列は数キロに渡っています。

石巻市の沿岸部も壊滅状態です。
自衛隊の災害派遣部隊や、援助物資も届き始めていますが、電気も一部のみ昨日やっときた状態で、戦争のあとみたいで、人が全く暮らせる状況ではありません。

熊本や鹿児島県警も入っていて、遺体が次々に運ばれています。

ここから女川方面はますますひどく、道路もほとんど寸断されています。

石巻市内でタイヤがパンク、鹿妻小学校に物資をはこびました。

目測ですが、石巻市で津波は10㍍前後、昨日の南三陸町で17〜26㍍前後あったようです。
どちらも破壊がひどく、臭いもひどくなりつつあります。
小学校などでもつらい状況のなか、たくさんの方たちが避難しており、あまりの規模の大きさに、言葉もありません。

生き残った子供達の元気さに救われる気がします。

ここからは今井の文章です。

テレビやラジオからは大切な情報が多数伝えられてくるが、その現場のにおいや現場の人たちの息遣いまで感じることはなかなか出来ない。スイッチを切ってしまえば、目の前からそして耳から、入っていた情報は遮断してしまうのである。そして別のチャンネルをひねれば、いつものような番組が戻ってきていて、子供も大人もいつものように軽い笑いを口からこぼすのである。その間も、現場ではいつ終わるか分からない避難生活の日々が続いているのである。

忘れない。